私たちはみな、人の心が「自己」と呼ばれる特別なものを含んでいると信じている。
「自己」とは、心の中でも、本当に「私自身」であるような部分と言っていい。 実際に考え、欲し、判断し、喜び、落胆し、悩ような心の一部分である。 しかもそれは、あらゆる経験を通して変わらず、あらゆるものをまとめあげる同一性を持つ。 だからこそ、私のこころの一番大切な部分なのだ。 それが科学的に扱えようと扱えまいと、そんなことはどうでもいい。 「私」は、それがそこにあるのを知っている。それは「私」なのだから。 おそらくそれは「科学」では説明できない種類のものなのだろう。
これは定義とは言えないが、もっと良い言い方を探す必要もないとおもう。 まだ理解していなものに対して、無理に定義をするのは、むしろ悪影響を与えることが多いからである。 概念を完璧につかめるような定義ができるのは論理と数学の世界だけである。 まして心を理解しようなどというときは、ほとんど何も知らないのだから。 いずれにしても、それが何かを知るために定義するなどという愚を犯してはいけない。
「自己とは何か?」と問うかわりに、 「自己について我々が考えていることは何なのか?」と問うことにする。そして次に、 「そうした考えは、どんな心理的機能を果たしているのか?」と問う。 そうすれば、自己についての私たちの考えは、一つではなくたくさんあることがわかってくる。
「自己についての私たちの考え」のなかには、自分自身が何であるのかについて、 自分が信じていることが含まれている。 こうした「信念」にはまた、「自分ができると信じていること」や「しがちだと信じていること」も含まれる。 そして私たちは、問題を解いたり、計画を立てるときに、決まってそうした「信念」を利用する。 それぞれが持ってる「自己イメージ」という信念に沿って、行動を起こしいているのだ。
さらに、「こうありたい」とか「どうあるべきだ」というような考えも含んでいる。
つづく