私たちは、自分自身について2つの見方をする。
ひとつは、自分をたったひとつの一貫した存在とみなす見方。 もう一つは、いろいろな違った傾向をもつたくさんの部分からできているという見方。 例をあげて比較してみよう。
単一自己の見方 「私は思い、欲し、感じる。わたしが思考していると思うのは私自身だ。 それは無名の群衆とか、自分を持たないいろいろな部分からなる雲みたいなものではない。」 多様な自己の見方 「私のある部分はコレが欲しいというが、別の部分はアレがほしいという。 私は自分自身をもっとうまくコントロールしなくてはならない。」
単一自己の見方 「私は思い、欲し、感じる。わたしが思考していると思うのは私自身だ。 それは無名の群衆とか、自分を持たないいろいろな部分からなる雲みたいなものではない。」
多様な自己の見方 「私のある部分はコレが欲しいというが、別の部分はアレがほしいという。 私は自分自身をもっとうまくコントロールしなくてはならない。」
もし、中心的で支配的なただひとつの自己が無いのだとしたら、 どうして私達は、こんなに確かに、そんなものがあるような感じを受けているのだろうか? そういう言わば作り話みたいなことに力を与えているのは何なのだろう?
もしかしたらそれは、 そういうものがないからこそ、そう感じるのかもしれない。