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心の社会 の変更点

#style(class=submenuheader){{
*1・エージェント
}}
#style(class=submenu){{
知能は知能でないものからどのようにして現れてくるのだろうか?
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心がたくさんの小さなプロセスからできているという考え方を「心の社会」と呼ぶことにする。
そして、心を構成する小さなプロセス一つ一つを「エージェント」と呼ぶことにする。
心がたくさんの小さなプロセスからできているという考え方を「''心の社会''」と呼ぶことにする。
そして、心を構成する小さなプロセス一つ一つを「''エージェント''」と呼ぶことにする。
こころのエージェントたちは、ひとつではまったく簡単なことしかできない。
しかし、ある特別な方法でいろいろな社会を構成すると、本当の知能にまで到達することが出来る。
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心についてのどんな理論も、その理論がまともなら、すくなくとも3つの長さの時間が関係してくる。

>1.脳の進化に関係してきた数億年というオーダー
2.何世紀というオーダーで数えられる、歴史的時間経過
3.赤ちゃんから子ども時代といった、すぐに過ぎ去るような数週間から数ヶ月、数年というオーダー

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心とはなにかを説明するには、心ではないものから心がどのようにして作られるかを示さなければならない。
思考とか感情をまったく含まないものを素にして、心を説明できなければ循環論法におちいるだけである。
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つまりエージェントというのはなんなのか?
この問に応えるのに考えなければならない課題をまずあげてみることにしよう。

>機能:エージェントたちはどのようにはたらくのか?
具体:エージェントたちは何でできているのか?
起源:最初のエージェントはどこから来たのか?
学習:どのようにして新しいエージェントをつくったり、古いエージェントを変えているのか?
役割:一番重要なエージェントはどんな種類のものか?またそんなものがあるのか?
権限:エージェント同士の意見が合わない場合、どうするのか?
意図:エージェントネットワークはどのようにして欲望や希望、意図をもてるのか?
自己:エージェントの集まりに統一性とかパーソナリティを与えるのはなにか?
意味:エージェントたちはどのようにして物事を理解するのか?
意識:エージェントたちはどのようにして自分自身に気づいたりすることができるのか?

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一つ一つの問をみると、どれも難しい。
だとしたら、どんな心の理論を作れば、こうしたいろいろなことが説明できるだろうか。
たしかに、問をバラバラにしてみると、どれも難しそうにみえる。
しかし、心をエージェントたちの社会と見なせば、一つ一つの問への答えが、他の問への答えにつながっていくのである。
しかし、心をエージェントたちの''社会''と見なせば、一つ一つの問への答えが、他の問への答えにつながっていくのである。
}}

#style(class=submenuheader){{
*2・脳と心
}}
#style(class=submenu){{
脳は固体のように見えるのに、思考のようなつかみどころのないものを支えている。
どうしてそんなことができるのか?この問には、むかしから多くの思想家が悩んできた。
どうしてそんなことができるのか?この問いには、むかしから多くの思想家が悩んできた。
思考の世界と、物の世界は離れすぎていて、そのあいだに直接的なインタラクションなど起こるわけがないようにみえる。
思考は他のものとはまったく別のなにかに由来していると考えなければ始まらないように思える。
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このような状況は数世紀前にも同じだった。
「生命」を説明することは、不可能に思われていたからだ。
しかし、どんな生物も小さな細胞からできていて、その細胞は複雑だがはっきり理解できるような化学物質からなっていることが分かってきた。
そしてまもなく、ジョン・フォン・ノイマンが細胞機械の自己増殖論を提案し、
ジェームス・ワトソンとフランシス・クリックによって、細胞が自分の遺伝子のコピーをつくる方法が発見される。
その結果、もう現在では、生命を説明するのに特別な生気力などを探し求めるひとはいなくなっている。
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それと同じように、わずか一世紀前には、思考を説明する方法は、基本的に何もなかったと言っていい。
そしていろいろあって、1940年代になってはじめて、心のはたらきと機械のはたらきという2つの考え方が統合されるようになった。
人工知能の研究が始まったのは1950年代のことでしかない。
''人工知能''の研究が始まったのは1950年代のことでしかない。
この人工知能の研究の誕生をきっかけにして、たくさんの新しい考えが生み出され、以前は心でしか出来なかったはずのことが機械にもできるようになってきた。
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今でも、機械が意思を持ったり、野心や嫉妬やユーモアをもったりすることなど出来るわけがないとおもってるひとが殆どだ。
しかしこれは、単に、思考のはたらきについてもっとよい理論が必要だ、ということに過ぎない。
どうすれば「心のエージェント」が、長い間わたしたちが求めてきた理論の''基本的な要素''になれるのだろうか?
}}

#style(class=submenuheader){{
*3・心の社会
}}
#style(class=submenu){{
心が社会のようなものだということを理解するために、自分自身でこう思ってみてほしい。
「紅茶の入ったカップを取りなさい」と。
このとき、自分のエージェントたちにはつぎのことが起こるはずである。
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>1.エージェント「つかむ」はカップを持っていたい
2.エージェント「平衡」は紅茶をこぼさないようにしたい
3.エージェント「のどがかわいた」は紅茶を飲ませたい
4.エージェント「動かす」は口元までカップを持って行きたい

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こうしたエージェントたちがはたらいたからといって、自分の心が疲れてしまうことはない。
それどころか私たちは、紅茶をとろうとしつつ、友だちとおしゃべりをしながら、部屋を歩き回ることすらできる。
エージェントたちがそれぞれ自分の小さな仕事をすれば、それが全部合わさってとても大きな仕事になる。
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それでは、平衡を保つのに、いくつくらいのプロセスをかんがえればいいだろうか。
腕と手と手のひらをうまく保つだけでも少なくとも100くらいのプロセスが必要だろう。
体全体が歩き回れるように骨格を制御するには筋肉系があと1000は必要にちがいない。
さらにちゃんと平衡をたもつには、各プロセスが他のプロセスとコミュニケーションをとれなければならない。
つまずいて倒れかけたらどうだろうか?
おそらく即座にたくさんのプロセスが発動して身体をもとにもどそうとするだろう。
身体をどう傾けて何処に足をつくかに関与しているものもあるだろうし、紅茶をどうするかに関係しているものもある。
自分の手にやけどをしたくないけど、かといって他人をやけどさせてしまってはいけないという判断など、とにかく迅速に決定を下している。
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このようなことは、私たち自身が話している最中に起こりうる出来事であるので、そういうことをするのに思考をそんなに必要としているとは思えない。
私たちは、歩きながら話しつつ、なにかの計画をたてたりする。
このように、いつも一度にいくつかのことをしている。
そしてこれは、あまりにも自然に行われているので、当然のこととしてあらためて考えもしない。
そしてこれは、''あまりにも自然''に行われているので、当然のこととしてあらためて考えもしない。
しかし、実際はこれらのプロセスは大変複雑な仕組みになっていて、いっぺんにはとても理解できない。
だからまずは、ひとつの単純な行為に的をしぼってかんがえてみよう。
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''科学では、もっともつまらなく思えるものを研究することによって、もっとも多くのことが得られる。''
ガリレオやニュートンが振り子やプリズムを研究して、広大な世界の謎に切り込んでいったように。
}}

#style(class=submenuheader){{
*4・積み木
}}
#style(class=submenu){{
積み木で遊んでいる子どもを考えてみよう。
そしていま、''作り屋''と呼ぶエージェントがはたらいているとしよう。
''作り屋''がとくいなのは、積み木で塔をつくることである。
しかし、塔をつくるのは、単純なエージェントひとつだけでは難しい。
そこで、エージェント''作り屋''としては、ほかのエージェントに助けを求める必要がある。
別の積み木を見つけて塔のてっぺんにおくのはエージェント''加える''の役目だが、たんにそれだけのことでさえ、エージェントひとつの仕事としては多すぎる。そこでエージェント''加える''は、また別のエージェントに助けを求める。(''見つける、手に入れる、置く''など、さらにその下請けへ・・・)
こうやっていくと、仕事が終わるまでに必要なエージェントの数は膨大になり、書ききれなくなる。

なぜ、いろいろな物事をこんな小さな部分に分ける必要があるのだろうか?
それは心が、塔とおなじように、いろいろな仕事の積み重ねでつくられているからである。
ただし、塔が積み木でできているのに対し、こころはプロセスからできている。

もしも積み木を積むことなんてくだらないと思うなら、小さい頃からずっとそう思っていたわけではないということは思い出してほしい。
子どもには、もっと難しいもののほうへ気が向くようになるまえに、積み木で塔や家が作れるなんて、なんて不思議でずばらしいとだろうと思う時期がある。
ところが大人は、積み木遊びのやりかたは知っているのに、誰一人として、''どうやって遊び方を覚えたかわかっていない''。
そして、その遊び方こそ、私たちが考えるべきことである。
積み木を並べたり積み上げたりする技能、それはもういわばたんなる常識のたぐいである。
この種の忘却、つまり小さい頃のことを忘れてしまうという事実から、心についてのつぎのような仮説を置くことが出来る。

>私たちの「常識」という能力はいつも自分の心のなかにあるのに、このすごい能力がいつどのようにして現れ、成長していくかについて、自分自身で考えてみることなど一度もない

という仮説である。
}}

#style(class=submenuheader){{
*5・常識
}}
#style(class=submenu){{
さて、塔を作るエージェントをいろいろな部分から構成する方法はわかった。
しかし、これではまだ、''作り屋''が完全にわかったというにはほど遠い。
というのは、子どもが積み木をただちょっと積むのでさえ、先ほどあげた以外にも、次のようなことをしなければならないからだ。

>エージェント「''見る''」は木を認識しなければならない
積み木の色、大きさ、おいてある場所、背景、影、光の当たり方、一部がなにかに隠されていたりしてもそれを認識する必要がる。
さらに、エージェント「''動かす''」が空間内の複雑な経路をたどって腕や手を導かなければならない。
そして、塔のてっぺんにある積み木を「''見つける''」がみようとしたり、「''取る''」が取ろうとしたりしたら、馬鹿げたことだと思わなければならない。

#br
こうしてみると、また新たな疑問がわいてくる。
エージェント「''見つける''」はどの積み木がまだ使えるかどうやって決められるのだろうか?
一つの方法としては、「''見つける''」が''いま心がなにをしようとしているか''という観点から情景を理解するという方法である。
このことからだけでも、''理解する''とはどういう事かとか、どうすれば機械に''目標''がもてるのか?ということについて、一貫した考え方が、なにかしら必要なことがわかる。
また、作り屋が実際に下さなくてはならない''判断''のことも考えてみると、目標をたっせいするだけの積み木があるかどうかとか、その積み木に上の積み木を支えるだけの大きさと重みがあるかとかなど、多くのことを''判断''しなければならない。
塔が揺れ出したらどうしたらいいか?本物の''作り屋''なら、その原因を探ろうとするに違いない。
どんな子どもだって覚えられるようなこういったことでも、子供時代をすぎてしまうと、私たちはほとんど考えることがない。
おとなになる頃は、こういったことを心のなかでみんな''ひとまとめ''にして、たんに''「常識」''と呼ぶのである。
しかし、この「常識」という騙されやすい言葉の中には、数えきれないほどたくさんの技能が隠されている。
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常識がそれほど多様で入り組んだものなら、なぜそんなに当たり前で自然なものに思えるのだろうか?
それは、私たちはもう、いろいろな能力を初めて身につけた頃のことを完全に忘れている。
そのために、常識は単純であるという錯覚を起こしているのだ。
新しい技能がいくつも身についていくと、私たちはさらにその上に''技能の層''を積重ねる。
すると、時間が経つにつれ、下の方の層はあとになって口に出そうとしても「わからない」とでも言うよりほかなくなっていくのである。

}}

#style(class=submenuheader){{
*6・エージェンシー
}}
#style(class=submenu){{
私たちの目的は、''知能''をもっと小さなものの''組み合わせ''で説明することである。
それには、その小さきもの、エージェント自体にはどれひとつとして知能がないことをいつも確認しておかなくてはならない。
そこで、エージェントがなにか複雑なことをしなければならないときは、そのエージェントをもっと単純なエージェントからなる小さな社会で置き換えてみることにする。
たとえば、エージェント「''作り屋''」が「見つける」や「手に入れる」のうような小さな部分からできているというように。
では、この技能が、''どうやって積むかを知っている''''のはなぜだろうか?
''作り屋''は、いくつかの部分から構成されていて、しかも「どうやって積むかを知っている」は、その内のどこにも無いのである。
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こと問の答えは、つまり、それぞれのエージェントを別々に説明しただけでは不十分だということだ。
これらのエージェントたちがお互いにどう関係しているか、つまりエージェントたちが''グループ''としてどのように仕事を成し遂げるか、についても理解する必要がある。
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したがって、話を進めるために、エージェントについて2つの見方をしてみよう。
それは、自分が何をしているかを知っている「''エージェンシー''」という見方と、
自分にしていることを知らない「''エージェント''」という見方である。
例えば、''作り屋''がはたらくのを外側から眺めるだけで、その内部を見ていなかったとすると、作り屋がどうやって塔をつくるかを作り屋自身がしっているように見えるだろう。
逆に、作り屋を内部からみることができたら、そこにはそんな知能などなにもないことがわかる。
お互いをオン・オフできるようなスイッチがたくさん見えるだけだろう。
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''作り屋は塔のつくり方を本当に知っているのだろうか?''
そのこたえは作り屋をどう見るかによる。
エージェンシーとしてみると、作り屋は自分の仕事をしっているように見え、
エージェントとしてみると、まったく何も知らないように見える。
#br

たとえば、自動車を運転しているときに、ハンドルは方向を変えるのに使えるエージェンシーだとみなしている。
そのとき、ハンドルの仕組みなど気にしないで、カーブを曲がったりしている。
しかし、ハンドルがおかしくなって、何が起こっているのか知りたくなると、そのハンドルをもっと大きなエージェンシーのなかの、ひとつのエージェントとみなしたほうが良くなる。
自動車には、車輪の軸を変えるロッドを引くためのギアがあり、そのギアを入れるシャフトがあって、エージェントとしてのハンドルはこのシャフトを回転させる。
運転中にこんなことを全部考えていたら、車輪がどっちに回るか分かるだけで時間がかかりすぎて、どっかにぶつかってしまう。
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「どのようにして」を知ることは「なぜ」を知ることとは違うことなのである。
「''どのようにして''」を知ることは「''なぜ''」を知ることとは違うことなのである。
心のなかを理解する上でも、このエージェントとエージェンシーという見方をはっきり分けて考えるほうが都合がよい。
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