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自己 の変更点

#style(class=submenuheader){{
*1・自己とは
*1・
}}
#style(class=submenu){{
私たちはみな、人の心が「自己」と呼ばれる特別なものを含んでいると信じている。

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< 「自己」とは、心の中でも、本当に「私自身」であるような部分と言っていい。
 実際に考え、欲し、判断し、喜び、落胆し、悩むような心の一部分である。
 しかもそれは、あらゆる経験を通して変わらず、あらゆるものをまとめあげる同一性を持つ。
 だからこそ、私のこころの一番大切な部分なのだ。
 それが科学的に扱えようと扱えまいと、そんなことはどうでもいい。
 「私」は、それがそこにあるのを知っている。それは「私」なのだから。
 おそらくそれは「科学」では説明できない種類のものなのだろう。

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これは定義とは言えないが、もっと良い言い方を探す必要もないとおもう。
まだ理解していなものに対して、無理に定義をするのは、むしろ悪影響を与えることが多いからである。
概念を完璧につかめるような定義ができるのは論理と数学の世界だけである。
まして心を理解しようなどというときは、ほとんど何も知らないのだから。
いずれにしても、それが何かを知るために定義するなどという愚を犯してはいけない。
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「自己とは何か?」と問うかわりに、
「自己について我々が考えていることは何なのか?」と問うことにする。そして次に、
「そうした考えは、どんな心理的機能を果たしているのか?」と問う。
そうすれば、自己についての私たちの考えは、一つではなくたくさんあることがわかってくる。
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「''自己についての私たちの考え''」のなかには、自分自身が何であるのかについて、
自分が信じていることが含まれている。
こうした''信念''にはまた、「自分ができると信じていること」や「しがちだと信じていること」も含まれる。
そして私たちは、問題を解いたり、計画を立てるときに、決まってそうした信念を利用する。
それぞれが持ってる''自己イメージ''という信念に沿って、行動を起こしいているのだ。
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さらに、「こうありたい」とか「どうあるべきだ」というような考えも含んでいる。
}}


#style(class=submenuheader){{
*2・自己はひとつ?
*2・
}}
#style(class=submenu){{
私たちは、自分自身について2つの見方をする。
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ひとつは、自分をたったひとつの一貫した存在とみなす見方。
もう一つは、いろいろな違った傾向をもつたくさんの部分からできているという見方。
例をあげて比較してみよう。
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> 単一自己の見方
 「私は思い、欲し、感じる。わたしが思考していると思うのは私自身だ。
 それは無名の群衆とか、自分を持たないいろいろな部分からなる雲みたいなものではない。」
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 多様な自己の見方
 「私のある部分はコレが欲しいというが、別の部分はアレがほしいという。
 私は自分自身をもっとうまくコントロールしなくてはならない。」
>

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もし、中心的で支配的なただひとつの自己が無いのだとしたら、
どうして私達は、こんなに確かに、そんなものがあるような感じを受けているのだろうか?
そういう言わば''作り話''みたいなことに力を与えているのは何なのだろう?

もしかしたらそれは、
そういうものが''ないからこそ''、そう感じるのかもしれない。
}}

#style(class=submenuheader){{
*3・保守的
}}
#style(class=submenu){{
私たちは、自分の心をどうやってコントロールしているのだろうか?

私たちは生涯を通して自己をコントロールするやりかたを探している。
成功すれば褒め、祝福し、失敗したきは自分に腹を立て、自分を恥じたり叱ったり、ごまかしたりする。
だが待ってほしい。
自分が自分に腹を立てるなんて、どうやったらできるのだろう?
たとえば、次のような場合・・。
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> 私はある問題に集中しようとしたが、あきて眠くなった。
 そこで私は、ライバルである教授が、同じ問題をあわや解きかけていると思うことにした。
 そして、その教授の努力を水泡に帰してやろうというライバル意識で、私はまたしばらくの間、
 問題を解こうと努力した。
 ところが実際には、この問題にライバルの教授が興味をもったことなど、いまだかつてなかったのである。

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私たちが、自分に影響をあたえる為に、ときにこんなにまで回りくどい方法をつかうのはどうしてだろうか。
どうして私たちは、自分のしたい事を、素直に自分に告げることができないのか?

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何かの働きを理解するには、その目的が分からなくてはならない。
昔は心臓のことが分かる人などいなかった。
ところが心臓が血液を循環させるのだということが分かるとすぐに、他のことが意味をもってくる。
管とか弁とかに見えたものは、たしかに管と弁だった。
心臓は単純なポンプだったのだ。
こうなると新たな推測が生まれてくる。
つまり、このポンプは脳細胞に食事を与えるためのものなのか?
体全体を温めたり冷やしたりするためのものなのか?
あるいは、メッセージを色んな所へ運ぶためのものなのか?
実際のところ、こうした推測は全て当たっている。
そして、心臓と血液の機能に関してこのような仮説を積み重ねていき、血液が空気も運べるかとういう問題にたどり着くと、
それまで謎だったいろいろな部分がはっきりとした形をとりはじめる。

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つまり、わたしたちが自己と呼ぶものを理解するには、まずそれが何のためのものかを知る必要がある。
自己の一つの機能は、''私たちがあまりに速く変わりすぎるのを抑えること''にある。

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人はみな、目的をひとつだけもつことと、一度に何もかもやってしまおうとすることとのバランスをとるために、計画というものを立てる。
あまりにも速く心変わりすると、長期計画はなりたたず、次に何をしていいのかわからなくなる。
自己がある特殊な「自由」をもっているといるという作り話は、じつは口実にすぎない。
自己というのは、実用上、必要なものなのである。
自己の機能の一部は、
私たちの自己が持つ性質、つまり計画という計画を全部だめにしてしまわないようにするという性質を、
私たち自身から隠す働きをしているのだ。
なんて、しちめんどくさい機能だろうか。
}}



#style(class=submenuheader){{
*4・利用
*3・
}}
#style(class=submenu){{
教授の問題の話をもうすこし詳しく見てみよう。

彼の心のなかの「はたらく」というエージェンシーが、エージェント「怒り」を利用して、エージェント「眠る」のはたらきをとめようとしたということだ。
しかし、「はたらく」は、どうしてそんなおかしなやりかたを使わなくてはならなかったのか?
その理由をかんがえるために、べつのやり方はなかったのか見てみよう。
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まず、「はたらく」が「眠る」のスイッチを''直接''切れるとすると、我々の身体はすぐに疲れ切ってしまうにちがいない。
また、「はたらく」が「怒り」のスイッチを''直接''入れられるとすると、私たちはいつも怒っていることになるに違いない。
直接そんなことができては危険過ぎる。きっと死んでしまうだろう。
じっさい「空腹」や「痛み」のスイッチを直接切れるような種は、早々に死滅するだろう。
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それよりも、必要なのはエージェントたちのチェックやバランス保持のメカニズムである。
ある一つのエージェンシーが他のエージェンシー全部のコントロールを握っていたとしたら、私たちは一日たりとも生き延びることはできないだろう。
私たちのエージェンシーが別のエージェンシーの機能を利用するために回り道を見つけなければならないのは、このためである。
直接的な接続は、進化の過程で取り除かれてきたにちがいない。
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またこれが、私たちが''幻想''や''作り話''というものをもちいる理由にちがいない。
怒ろうと決めても怒ることはできない、が、自分を怒らせるであろうものごとや状況を想像し設定することはできる。
エージェンシー「はたらく」が、「怒り」が「眠り」を妨害する傾向を高めるために、ある特定の記憶を利用したのだ。
これが、自分をコントロールするのに使われる、典型的なやり方なのである。
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私たちが自分をコントロールする方法は、このように、たいてい心のなかで無意識的に進行するが、
いっぽうでは、意識的に自分に報酬を与えてくれるような方法をとることもある。
「この仕事がおわれば、休暇がとれるぞ」といったように。しかし、そんなふうに自分をごまかすのはそれほど簡単なことではない。
自分に影響を与えるのに使う方法は、他人を利用するのにつかう方法とそんなに違わない。
とくに、どちらもよく失敗がおこるということが似通っている。
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ではなぜ、自分に動機づけするやりかたは、ほとんどうまくいかないのだろうか?
それは、さきに見てきたように、直接的は結びつきが危険過ぎるからである。
もし自分をコントロールするのがかんたんに出来てしまっては、私たちは結局なにも達成できないままに一生を終えることになるだろう。
}}


#style(class=submenuheader){{
*5・コントロール
*4・
}}
#style(class=submenu){{
自分をコントロールする方法はたくさんあるが、
ここではとくに''疲れたりがっかりしたとき''に使う、いろいろなやり方を見ていこう。
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> ''意志:あきらめんな!やり続けるんだ!と自分に言い聞かせる。''
 これは、最初は上手くいく。しかし最後には必ず失敗する。
 まるで、心のなかの電池がきれたかのように。
 
 ''活動:動き回る。とにかく身体を動かす''
 物理的な方法は効果があるという研究結果は、多く出ている。
 刺激的な場所に移動し環境を変えることなどもある。
 
 ''化学物質:コーヒー、アンフェタミン、タバコ、その他の薬物''
 これは、直接脳内環境を変える行為。
 
 ''感情:勝てばずいぶん得をするぞ。しかし負ければずべてパーだ。''
 心のなかの行為として、考えや幻想を作って自分自身の感情を動かそうとする方法。
 
 ''愛着:成功したときに受ける尊敬と、失敗したときに受ける非難。''
 とくに自分が愛着を抱いているひとから受ける尊敬や非難を想像する。
 これがおそらくいちばん強力な動機づけだろう。
>

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このように、自分をコントロールする方法はたくさんある。
そのうちどれを使うかをどうやって選んでいるのだろうか?
選び方には簡単な方法はない。
自分をコントロールする方法を学習するには何年もかかるのが普通だ。
そうしたやりかたは、それぞれの人の心のなかで、成功と失敗の経験を積み重ね、少しずつ育っていくのである。
}}


#style(class=submenuheader){{
*6・長期的計画
*6・
}}
#style(class=submenu){{
私たちは、完成するはずのない計画に関わることがよくある。
小さな問題なら他の目標と切り離されているかのように扱えるので、簡単に解くことが出来る。
しかし、駆け引きのしかたを学ぶとか、子どもを育てるとか、小説を書くとかいった、人生の大きな部分にわたる計画では話が違ってくる。
時間のかかる問題を片付けるのに、たんに「決める」とか「選ぶ」とかいうことはできない。
というのは、こうした問題は当然、別の関心ごとや望みと矛盾するからである。
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>これのかわりに、なにをあきらめなければならないのだろう?
この目標を達成しようと決めることは、自分をどう変えるだろう?

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自分をコントロールする方法の多くは、他人に影響を与えようとする方法と同じものである。
たとえば、恐れとか欲望を利用する。
しかし、短期的には通用するやりかたでは、長期的には自分のやりたいことに目が向かなくなる場合が多い。
そういう場合には、「元へはもどらないような変化」が得られる方法が、何かしら必要である。
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エージェンシーたちのなかで、最も遅く変化するものはなんだろう。
こうしたエージェンシーたちのなかには、私たちが「性格」と呼んでいるものを形作るようなものが含まれている。
彼らは黙って隠れていて、私たちの欲しいものだけでなく、なりたいもの、つまり自分自身で決めた自己イメージに関与して、組織だってはたらくのだ。
}}


#style(class=submenuheader){{
*7・まとめ
*7・
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#style(class=submenu){{
私たちの目標は、いろいろな時間の長さや時間の尺度に関係している。
では一時の傾向が、長期的な計画をたてるエージェンシーによって壊されたとき、どんなことが起こるだろうか?
たとえば、自分のしたいこととすべきだと感じていることが一貫していない場合のように、
心の中の不一致によって、居心地が悪くなったり、罪悪感をかんじたり、恥ずかしくなったりする。
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エージェンシーたちは子供の頃にいろいろなタイプの目標を身につける。
それから、古いエージェンシーたちが新しいエージェンシーたちをつくるのに影響するという、いわば重なりあった網のなかで、子どもは成長する。
いっぽう個人の中だけでなく外側でも、人間のコミュニティすべてにわたって同じような過程が進行している。
#br
そうやって形成されていく「長期間つづく自己イメージ」がなければ、私たちの人生は一貫性を失ってしまう。
長期的な計画をたてるとき、自分自身を信用できなくなる。
社会的な関係において、誰も他人を信用できなくなる。
''活動している社会''においては、自己を安定させるメカニズムは必須なのだ。
#br
そして、わたしたちの誰もが、個人的なものだと思うような社会原理の多くは、何世紀にもわたって学んできたものを私たちの文化が保持するための「''長期記憶''」なのである。
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